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講師の頭の中blog
「悲鳴をあげる身体」(鷲田清一著)の文章題を解いて
2023/05/22

こんにちは、堀金です。
今回のタイトル。
高3現代文のテキストに出てくる文章で、毎年、僕が楽しみにしている作品なんですが
ちょっぴり抜粋。
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家庭という場所、そこでひとはいわば無条件で他人の世話をうける。言うことを聞いたからとか、おりこうさんにしたらとかいった理由や条件なしに、自分がただここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらった経験がたいていの人にはある。こぼしたミルクを拭ってもらい、便で汚れた肛門をふいてもらい、顎や脇の下、指や脚のあいだを丹念に洗ってもらった経験…そういう「存在の世話」を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの〈信頼〉を失わないでいさせてくれる。
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うんうん、と。
ライブハウス最前線でヘッドバンキングに興じる観客か、というくらい肯定したい気持ちになります。2歳になる娘のおむつ替え、お風呂入れをしているときにいつもこの文章が浮かびます。
そりゃ父親ですから、お世話をするのは当たり前でしょう。
だけど、このやりとりが、いつしか、物心ついたときに、親子の絆の根幹を成す要素になるんだよなぁ、ってしみじみと思います。
受けた愛情を、自分の大切な人にも注げる人になってほしい。
人間、されたようにしか育たないと思ってますので、他ならぬ自分が遂行しなくては、と。
夜泣きして抱っこしに行ったら「パパいや、ママがいい」って言われても挫けません。
「愛」ってなんだろうな、ってよくよく考えます。
考えるだけでは答えは出ないのですが、少なくともわかっていることは
行動しないと示すことはできない、ということですかね。
勉強は結構わかりやすい事例だと思うんですけど、できないままだと確実に困るわけです。
だけど、できるようになってしまえば、色々な可能性が開けてくる。
そして、諦めさえしなければ必ずできるようになるものです。
(この「諦めさえしなければ」というのがなかなか曲者なのですけども。)
困って欲しくない。諦めて欲しくない。未来を、可能性を、自分自身を。
そう考えると、自分が日頃仕事として生徒に向けてやっていることは、愛に満ちてる気がしてきました。もしかしたら生徒の目には、僕の背景にハートマークが浮かんでいたのかもしれません。
なんて、そうだったらいいんですけども。(いやよくないけど。)
僕の愛(課題、宿題)は手渡そうとするとまぁ、嫌がられるので…こっちとしては「哀」です。
でもそれでいぢけるのも大人としてはどうなのかな、って思うので
届くと信じて愛を送り続けます。
いつか、そうされることの価値が…愛を送る側になったら気が付くものなのでしょうか。
幸せの形は人それぞれですが、愛し、愛される人生…個人的にはおすすめです。
個人の意見でよければコツをお伝えできますので、興味のある方はお尋ねください。
それでは本日はこの辺で。
堀金でした。